NHKスペシャルで放送された一本のドラマが、今、大きな波紋を広げています。戦時中の実在の軍人をモデルにした登場人物の描写を巡り、その遺族が「人格を毀損された」としてBPO(放送倫理・番組向上機構)への申し立てを表明したのです。
多くの人は「ドラマはフィクションなのだから」と考えるかもしれません。しかし、一度立ち止まって考えてみましょう。公共放送が史実を扱うとき、その「フィクション」の境界線はどこにあるのでしょうか。この記事では、元新聞記者としての視点から、今回の問題の深層に隠されたメディアの構造的な課題を冷静に読み解いていきます。
NHKドラマが遺族の怒りを買った「人格毀損」表現の真実とは?
問題となっているのは、2025年8月に放送されたNHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」です。この番組は、太平洋戦争開戦前、日本の頭脳が集められた「総力戦研究所」で行われた机上演習をテーマにしたもので、猪瀬直樹氏のノンフィクションを原案としています。
ドラマは「日本必敗」という結論を導き出した若きエリートたちの苦悩を描きましたが、その中で研究所の所長だった飯村穣陸軍中将をモデルとする人物の描き方が、遺族である孫の飯村豊氏(元駐仏大使)の強い怒りを買いました。豊氏は、祖父の人格を不当に貶めるものだとして、放送倫理の独立機関であるBPOへの申し立てに至る経緯を明らかにしました。
総力戦研究所ドラマで描かれた所長像の問題点
では、具体的にどのような描写が問題視されたのでしょうか。ドラマの中で飯村中将をモデルとした所長は、若手研究員が導き出した「日本必敗」の結論を覆すよう圧力をかける、いわば「悪役」として描かれていました。
部下の自由な議論を阻害し、責任逃れのために圧力をかけるような人物像。遺族の言葉を借りれば「軍人が出てきて怒鳴りまくっている」場面も含まれていたとされています。物語の対立構造を際立たせるための演出だったのかもしれませんが、この描き方が史実の人物像と著しく乖離していたことが、問題の根幹にあります。
史実とフィクションの境界線はどこにあるのか
もちろん、NHK側も手をこまねいていたわけではありません。番組冒頭には約15秒間、「このドラマはフィクションです」という趣旨のテロップを表示。さらに、番組はドラマパートとドキュメンタリーパートで構成されており、後者では実際の飯村中将の功績も紹介されていました。
しかし、「フィクション」という一言は、歴史上の人物の尊厳を扱う上での免罪符になるのでしょうか。特に「NHKスペシャル」という、多くの視聴者が事実に基づくと信頼を寄せる番組枠で放送されたドラマのインパクトは絶大です。テロップの注意書きと、視聴者が受ける印象との間には、埋めがたい溝があったと言わざるを得ません。
飯村豊氏が激怒した「祖父への卑劣な描写」の全貌
遺族である飯村豊氏の怒りの根源は、単なる「史実との違い」にとどまりません。彼が「想像以上に卑劣な人物像」「歴史を歪曲し、捏造している」とまで強く批判するのは、その描写が祖父の名誉と人格を著しく傷つけたと感じたからです。ここでは、史実の人物像とドラマの描写がどれほど異なっていたのかを具体的に見ていきましょう。
実際の飯村穣中将の人物像と評価
史実における飯村穣中将は、ドラマで描かれたような頭の固い軍人とは全く異なる評価を受けています。彼はフランス語に堪能でトルコでの駐在武官経験もある国際派であり、視野の広い人物として知られていました。
自身の著書でも、総力戦研究所では若手エリートが自由に議論できる環境を整えたと記しており、原案となった猪瀬直樹氏の著作でも先進的な発想の持ち主として評価されています。つまり、自由闊達な議論を奨励したリーダーというのが、資料や証言から浮かび上がる実像なのです。
ドラマ内での「悪役」描写との乖離
人望厚いリーダーであり、開かれた議論を重視した教育者。これが史実の飯村中将の姿です。一方、ドラマでは議論を抑圧する権威主義的な人物として描かれました。この乖離は、もはや「脚色」の範囲を超えていると遺族は主張します。
この一件は、制作者が物語を面白くするため、あるいは特定のメッセージを伝えるために、歴史上の人物を都合の良い「記号」として消費してしまったのではないか、という深刻な問いを投げかけています。これは、メディアが歴史を扱う際に常に直面する、倫理的なジレンマそのものです。
BPO申し立てに至るまでの経緯と遺族の戦い
今回のBPO申し立ては、放送後に突然行われたわけではありません。そこには、放送前から続いていた遺族とNHKとの間の、長く困難な交渉の経緯がありました。この過程は、一個人と巨大な放送局との間にある構造的な非対称性を浮き彫りにします。
放送前からのNHKとの交渉過程
飯村豊氏は放送約1ヶ月前の7月、NHKのホームページで番組の存在を知り、その内容に懸念を抱きました。すぐさま番組担当者に接触し、内容の変更を求めましたが、受け入れられなかったといいます。遺族側からの協力要請などは一切なかったとのことです。
最低限の要求としてフィクションであることを明示するテロップ表示を求め、それは実現しました。しかし、NHKの副会長や専務理事への面会要求は「現場の者が対処する」として断られるなど、組織としての真摯な向き合いがあったとは言い難い状況だったようです。
テロップ表示だけでは解決できなかった根本的問題
遺族が「小手先の対応」と批判するように、テロップ表示だけでは問題は解決しませんでした。なぜなら、「ドラマのインパクトはテロップの比ではない」からです。視聴者は、注意書きよりも、映像が持つ圧倒的な力によって人物像を記憶します。
公共放送として史実を正しく伝える責任があるはずのNHKが、結果的に誤った人物像を世に広めてしまったのではないか。この点が、遺族が最も問題視する、放送倫理に関わる根本的な問題なのです。
「人格を毀損するような描き方」とは何を意味するのか?
今回の騒動の中心にあるのが、「人格を毀損するような描き方とは」何か、という問いです。これは感情論ではなく、放送倫理や法的な観点から議論されるべき重要な概念です。過去の事例も参考に、この言葉の意味を掘り下げてみましょう。
法的・倫理的観点から見た人格権侵害
人格権とは、名誉、プライバシー、肖像権など、人が個人として尊重されるための権利の総称です。放送によって、人の社会的評価を不当に低下させたり、人格的な利益を損なうような描写をしたりすることは、人格権の侵害にあたる可能性があります。
たとえ故人であっても、その描写が遺族の敬愛の念を傷つけるなどした場合は、遺族の人格権侵害として問題になることがあります。BPOの放送人権委員会は、こうした申し立てを受け、放送倫理上の問題がなかったか、人権侵害はなかったかを審理する機関です。
過去のBPO事例から学ぶ判断基準
BPOはこれまでにも同様の案件を扱ってきました。
- テレビ東京「警察密着番組」:事後撮影や過度な演出が人権侵害と認定。
- NHKスペシャル「STAP細胞」:研究者への名誉毀損にあたる人権侵害があったとして勧告。
- フジテレビ「テラスハウス」:出演者への配慮を欠き、精神的苦痛を与えたとして放送倫理上の問題ありと判断。
これらの事例から見えてくるのは、たとえ事実に基づいていたとしても、描き方や演出が個人の尊厳を不当に傷つけた場合に問題となる、という判断基準です。今回のNHK BPO申し立ても、ドラマが「人格を毀損するような描き方とは」何かを問う試金石となるでしょう。その経緯と共に、今後のBPOの判断が注目されます。
よくある質問と回答
Q. なぜNHKは実在の人物を史実と異なる「悪役」として描いたのですか?
A. 推測の域を出ませんが、一般的にドラマ制作では、善と悪の対立構造を明確にすることで物語を分かりやすくし、視聴者の感情移入を促す狙いがあります。しかし、その手法が実在の人物の名誉を傷つけ、史実を歪めてしまう危険性を孕んでいたと言えるでしょう。
Q. 「フィクション」と断れば、どんな描き方をしても許されるのですか?
A. 許されません。たとえフィクションであっても、モデルとなった人物の社会的評価を不当に貶める表現は、BPOによって人格権侵害や放送倫理上の問題と判断される可能性があります。特に、絶大な信頼性を持つ公共放送が史実を扱う際には、より高い倫理観が求められます。
Q. BPOに申し立てをすると、番組内容の訂正や謝罪は行われるのですか?
A. BPOの決定に法的な拘束力はありません。しかし、放送局に対して出される「勧告」や「見解」は社会的に非常に重く受け止められます。多くの場合、放送局は再発防止策を策定したり、謝罪放送を行ったりするなど、何らかの対応を取ることが通例です。
まとめと今後の展望
本稿で論じてきたように、今回のNHKドラマを巡る問題は、単なる一つの番組に対するクレームではありません。これは、メディアが歴史という題材とどう向き合うべきか、そして表現の自由と個人の尊厳という、時に相反する価値をいかに両立させるかという、普遍的で根深いテーマを我々に突きつけています。
「フィクションだから」という一言で思考を止めるのではなく、その背景にある作り手の意図やメディアの構造的な課題にまで目を向けること。それこそが、情報を受け取る我々一人ひとりに求められるメディアリテラシーなのかもしれません。この一件が、放送のあり方を改めて考える一石となることを期待します。
参考文献
- COKI:NHKドラマに遺族が抗議 「祖父を卑劣に描いた」とBPO申し立てへ (出典)
- 高知新聞:NHKドラマに遺族抗議、BPO申し立てへ (出典)
- 時事通信:NHK戦争ドラマは「歴史歪曲」=モデルの遺族、BPO申し立てへ (出典)
- Yahoo!ニュース:NHKドラマに遺族が抗議 戦争特番BPO申し立てへ (出典)
- BPO(放送倫理・番組向上機構):委員会活動 (出典)
- BPO(放送倫理・番組向上機構):委員会運営規則 (出典)
- 毎日新聞:「祖父の人格を毀損」 NHKの戦後80年ドラマに遺族が抗議 (出典)
- ふくまめドットコム:飯村穣は実際はどんな人物?総力戦研究所の所長としてNHKスペシャルで描かれた内容との差は? (出典)
- NHK放送文化研究所:STAP細胞のNスペ,「名誉毀損の人権侵害」 (出典)


