高校時代の事故で車いす生活となった田中愛美選手。
しかし、その逆境をバネに車いすテニスの世界で頭角を現し、パラリンピック選手として活躍中です。テニスへの情熱と不屈の精神で世界に挑む田中選手の軌跡をwiki形式でご紹介します。
車いすテニスの田中愛美選手プロフィール
- 生年月日:1996年6月10日
- 出身地:熊本県菊陽町出身(3歳で埼玉県所沢市に移住)
- 競技:車いすテニス
- 所属:長谷工コーポレーション(2022年~)
- 世界ランキング:11位(2024年8月現在)
- ニックネーム:まなみん
テニスから車いすテニスへ!田中愛美のテニス人生とは
田中愛美選手のテニス人生は、常識を覆す挑戦の連続でした。中学時代のちょっとしたきっかけから始まり、高校での大きな試練を乗り越え、世界で活躍する車いすテニスプレーヤーへと成長していった軌跡を紹介します。
意外なきっかけから始まったテニス人生
田中愛美選手は、埼玉県所沢市にある富士見中学校に入学しました。この学校は中高一貫の女子校で、いわゆるお嬢様校として知られています。テニスとの出会いは、中学入学時のエピソードから始まります。
田中愛美選手は中学生からテニスを始めました。きっかけは意外にも体型への指摘でした。インタビューで田中選手は次のように語っています。
「中学受験で太ってしまい制服を採寸するとき『あら、キューピーちゃん体形ね』と言われたんです(苦笑)。そこで運動部に入ることに決め、テニス部へ。」
負けず嫌いな性格から、同級生に負けじと内緒でテニススクールに通うなど、努力を重ねました。その結果、中学3年生では80人もの部員を束ねるテニス部のキャプテンを務めるまでに成長しました。
人生の転換点は高校時代の予期せぬ事故
田中選手は中学から継続して富士見高等学校に進学し、テニス部での活動を続けていました。しかし、高校1年生の冬(2013年)に運命を大きく変える出来事が起こります。
高校1年生の冬(2013年)、自宅の凍った外階段で滑り、脊髄を損傷する事故に遭いました。4ヶ月の入院生活を経て、両下肢の麻痺により、おへそから下を動かせなくなったことを知ります。
田中選手は当時の心境をこう語っています。
「もちろん受け入れられない時期もありました。」
不屈の精神で挑む!車いすテニスへの転向
退院後、田中選手の最大の願いは部活動に戻ることでした。テニス部顧問の中島弘貴先生の「プレーヤーとして戻ってきなさい」という言葉に励まされ、車いすテニスを始めました。
田中選手は顧問の言葉の影響をこう振り返ります。
「先生は『どうせ部活に戻って来るんだったら(テニスを)やる側のプレーヤーとして戻ってきなさい』という風に言ってくれた」
しかし、車いすテニスへの適応は容易ではありませんでした。
「ボールに届かない、走れない、動けない、というのが本当にフラストレーションが最初のうちは溜まりました」
それでも諦めず、母親と二人で毎日リハビリに励みました。
「学校が終ってから、リハビリ病院の体育館でただひたすら走る練習とかを母親と二人でひたすら平日の夕方にやっていた」
プロフェッショナルへの道:夢への第一歩
高校卒業後、東京2020パラリンピックへの出場を目標に掲げ、一度は進学した大学を中退して競技に専念しました。その決意について田中選手はこう語っています。
「本当に普通の女子高生として過ごせたので、感謝の気持ちは普通のことをするだけでは伝えきれないと感じたんです。『マナミの友だちでよかった』と言ってもらうために、高3のとき、開催が決まったばかりの東京パラリンピックに出場しようって。」
世界を驚かせる田中愛美の輝かしい競技成績
田中愛美選手の競技成績は、その努力と才能を如実に物語っています。世界ランキングトップ10入りを果たし、パラリンピックでの活躍など、彼女の成長は目覚ましいものがあります。
- 2016年:世界国別選手権(ワールドチームカップ)日本代表として初出場、3位入賞
- 2018年:世界ランキングトップ10入り
- 2019年:ワールドチームカップ(イスラエル)2位
- 2020年:インディアンウェルズ・テニス・ガーデン選手権(アメリカ)シングルス1位、ダブルス1位
- 2021年:東京パラリンピック 女子シングルス9位、女子ダブルス(髙室/田中)5位 2023年:杭州
- 2022アジアパラ競技大会 女子シングルスベスト8、女子ダブルス(上地/田中)1位 2024年:パリパラリンピック出場権獲得
攻撃的スタイルで魅せる!田中愛美の独自のプレースタイル
田中選手は小柄な体格ながら、パワフルなショットが特徴です。特にフォアハンドからのネットぎりぎりの低く速いボールが得意で、攻撃的なテニスを展開します。コーチの岩野耕作氏は田中選手の強みをこう評しています。
「粘り強いところ。プレー的にも性格的にも粘り強い。それが早く成長した理由かなと」
田中選手自身も自身のプレースタイルについてこう語っています。
「先手必勝のテニスです。やられる前に先にやるっていうスタイル。たとえば上地選手はベースラインより後ろに下がって大きく回って、という守備的なスタイルですが、私は上地選手よりもネット寄りで攻める攻撃的なスタイルなんです。」
明るさと粘り強さが魅力!田中愛美の人柄とエピソード
田中愛美選手の人柄は、多くの人々を魅了し、支えとなっています。彼女の明るさ、粘り強さ、そして周囲への感謝の気持ちは、彼女のテニスプレーにも大きな影響を与えています。
負けず嫌いが生んだ秘密の特訓
田中選手の負けず嫌いな性格は、彼女のテニス人生の原動力となっています。中学時代、同級生に負けたくないという一心から、内緒でテニススクールに通い始めました。
「同じクラスのテニス部の友人には、テニスをしていた経験者が多かったんです。だから、学校の部活のほかに、テニススクールに通い始めたんです。しかも、そのことは友人には誰一人言わなかったんですよ」と田中選手は当時を振り返ります。
この秘密の特訓は、彼女のテニス技術を飛躍的に向上させ、後に80人もの部員を率いるキャプテンになる基礎となりました。
逆境を笑顔で乗り越える!明るさが生んだ奇跡
田中選手の明るい性格は、事故後の困難な時期を乗り越える大きな力となりました。「車いすで頑張ろう」と前向きに捉えられたことが、彼女の復活の鍵となったのです。
この明るさは、周囲の人々にも大きな影響を与えました。学校や友人たちは彼女の前向きな姿勢に応え、急遽多目的トイレやスロープを設置するなど、全面的なサポートを提供しました。
「本当に普通の女子高生として過ごせたので、感謝の気持ちは普通のことをするだけでは伝えきれないと感じたんです」と田中選手は語り、この経験が彼女のパラリンピック出場への強い動機となりました。
ユニークなメンタル管理は歌で緊張を解きほぐす
試合中の緊張管理も、田中選手らしい方法で行っています。音楽好きな彼女は、試合中に歌を口ずさむことで緊張を和らげているのです。
この習慣は、コーチの岩野耕筰氏の提案から始まりました。「自然と歌を口ずさんでいる時って、彼女が一番リラックスした状態だと思うんです。ですから、試合でもそれを活用したらいいんじゃないかな」とコーチは語ります。
この独特なメンタル管理法は、田中選手の実力を十分に発揮するための重要な要素となっています。
パリパラリンピックへの挑戦!メダル獲得への熱い思いとは
田中愛美選手にとって、パリパラリンピックは大きな挑戦の場となります。東京大会での経験を活かし、さらなる高みを目指す彼女の目標と意気込みを紹介します。インタビュー記事で語られた田中選手の3つの主な目標は以下の通りです。
- パリパラリンピックでのメダル獲得
- 「(パリパラリンピックは)メダルを取るという気持ちを強く持っているのでみなさんの前で活躍している姿を見せられたらいいなと思う」(熊本放送のインタビューより)
- 世界ランキングトップ8入り
- 「トップ8に入るには、今その中に入っている選手を誰かしら倒さないといけない。なので、来年は大きな大会で勝てるような選手にならなければいけないと思っています」(パラサポWEBのインタビューより)
- 引退後のジュニア育成
- 「引退後は、ジュニアの育成に携わりたいとも考えているんです。周りのサポートのおかげで私が車いすでもテニスにチャレンジできたように、下の世代が存分にテニスをできる環境を作っていきたいです」(パラサポWEBのインタビューより)
これらの目標は、田中選手の競技への情熱と、支えてくれた人々への感謝の気持ちから生まれています。パリパラリンピックでの活躍が、彼女の夢への大きな一歩となることは間違いないでしょう。