1980年代後半、女子バレーボール界に彗星のごとく現れた斎藤真由美選手。
「バレーボール界のゴクミ」と呼ばれ、その若い頃から多くのファンを魅了しました。高校中退、15歳での実業団入り、そして17歳での日本代表入りと、斎藤選手の若手時代は栄光と挫折が交錯する波乱の連続でした。
美貌と実力を兼ね備えた斎藤選手の若い頃に迫り、彼女が女子バレーボール界にもたらした影響を探ります。
10代で日本を代表する選手となった彼女の知られざるエピソードや、当時のバレーボール界の熱狂ぶりをお届けします。
斎藤真由美選手の若き日々が、いかに多くの人々を魅了し、インスピレーションを与えたのか、その軌跡をたどります。
斎藤真由美、10代で日本代表に!驚異の実力と華麗な容姿
1980年代後半、女子バレーボール界に彗星のごとく現れた斎藤真由美選手。わずか17歳でソウル五輪の第1次候補選手に選出され、その実力と美貌で一躍時の人となりました。
当時10代という若さで、どのようにして日本代表の座を勝ち取ったのでしょうか。斎藤選手の驚異的な才能と、それを支えた努力の軌跡を追ってみましょう。
「バレーボール界のゴクミ」と呼ばれた美貌とは
斎藤選手は、その端正な顔立ちと爽やかな笑顔から「バレーボール界のゴクミ」と呼ばれ、一世を風靡しました。当時人気絶頂だった女優の後藤久美子に顔立ちが似ていたことから、このニックネームが付けられたのです。
スポーツ専門の雑誌だけでなく一般の雑誌にも特集が組まれ、テレビ番組にも出演するなど、その人気ぶりは凄まじいものでした。ボーイッシュな短髪とキュートな笑顔は、今なおバレーボールファンの記憶に鮮明に残っています。
斎藤選手の人気は、当時の「とんねるずのオールナイトニッポン」でパーソナリティのふたりが斎藤のファンであると公言するほどでした。しかし、斎藤選手自身は一貫してバレーボール選手としてのスタンスを崩さず、プレーに集中し続けました。
高校中退から実業団へ!波乱の若手時代
斎藤選手のバレーボール人生は、決して順風満帆ではありませんでした。バレーボールの名門高校に進学後、1年生でレギュラーとなり、インターハイで3位の成績を残すなど順調なスタートを切りました。
しかし、厳しすぎる指導方法や人間関係に疑問を感じ、高校1年生で中退するという大きな決断をします。当時の指導者の中には、試合に負けたら延々と殴るなど、今では考えられないような指導方法を取る人もいました。斎藤選手は、そのような環境に大きな不信感を抱き、バレーボールへの情熱さえも失いかけていました。
そんな中、イトーヨーカドーからスカウトを受け、わずか15歳で実業団入りを果たしました。「バレーボールの楽しさを知る前にやめてしまうのはもったいない」という言葉に心を動かされ、再びバレーボールに向き合う決意をしたのです。
17歳で日本代表入り!若き天才の実力
1987年、16歳で日本リーグデビューを果たした斎藤選手。翌1988年には17歳でソウル五輪の第1次候補選手に選出されます。1989年のワールドカップで華々しく全日本デビューを飾り、キューバや中国などの強豪国を相手に大活躍。敢闘賞を受賞しました。
同年の日本リーグではイトーヨーカドーの初優勝に貢献し、最高殊勲選手に選ばれるなど、その実力は疑う余地がありませんでした。
斎藤選手は、当時を振り返り「誰も期待してないんだから精いっぱい楽しもう」という気持ちでプレーしていたと語っています。この前向きな姿勢が、プレッシャーに押しつぶされることなく、若くして大舞台で活躍できた秘訣だったのかもしれません。
突然の試練!事故による大怪我の衝撃
しかし、順風満帆に見えた斎藤選手の選手生活にも、大きな試練が待ち受けていました。度重なる怪我に苦しみ、全日本に選出されるたびに体を壊すようになってしまいます。19歳の頃には右肩が上がらず、クシで髪をとかすこともできないほどの状態に陥りました。
さらに1993年8月、交通事故に巻き込まれ大怪我を負います。飲酒運転と居眠り運転のトラックに正面衝突され、額を13針縫うほどの大怪我を負いました。復帰までに6年半もの時間を要することとなり、「悲運のエース」とも呼ばれるようになりました。
この事故のショックは大きく、斎藤選手は長らくフラッシュバックに悩まされることになります。しかし、70代の看護師さんの「頑張っていれば、その傷が人生の勲章になる時が必ず来る」という言葉に励まされ、復帰への希望を見出していきました。
80年代後半の女子バレー界とは?斎藤真由美が与えた影響
1980年代後半、女子バレーボール界は「斎藤派」と「益子派」に二分されるほどの人気を博していました。斎藤選手と益子直美選手は、同じイトーヨーカドーに所属し、1989年には日本リーグ初優勝に貢献しています。
斎藤選手の存在は、バレーボールの競技人口増加にも大きく貢献しました。その華麗なプレースタイルと美貌は、多くの少女たちの憧れとなり、バレーボールの魅力を広く伝える役割を果たしたのです。
また、斎藤選手の活躍は、テレビ中継の視聴率向上にも貢献しました。彼女のプレーを見るために、バレーボールに興味のなかった人々までもがテレビの前に釘付けになったのです。
これにより、バレーボールの認知度と人気が一気に高まり、80年代後半から90年代初頭にかけての女子バレーブームの火付け役となりました。
まとめ
斎藤真由美選手は、その若さと実力、そして美貌で1980年代後半の女子バレーボール界に大きな旋風を巻き起こしました。
高校中退という挫折を乗り越え、17歳で日本代表入りを果たした彼女の軌跡は、多くのバレーボールファンの心に深く刻まれています。
怪我や事故という試練に直面しながらも、常に前を向いて挑戦し続けた姿勢は、今もなお多くの人々に勇気を与え続けているのです。
斎藤選手の存在は、単にバレーボール選手としてだけでなく、逆境を乗り越える強さと美しさを体現した象徴として、日本のスポーツ史に輝き続けています。
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