「リストに載っていたのに、なぜ防げなかったのか?」——。JALの64歳男性機長による飲酒・検査記録改ざん問題で、多くの人が抱いたのはこの一点に尽きるのではないでしょうか。JALは再発防止策の切り札として「要注意者リスト」という制度を導入していました。しかし、その網をいとも簡単にすり抜け、あわや大惨事につながりかねない事態が現実に起きてしまったのです。
最新の管理システムも、人間の弱さや組織の構造的な欠陥の前には無力なのでしょうか。これは単なる一企業の不祥事ではありません。リスク管理やコンプライアンス体制を考える上で、全ての組織にとって重要な教訓を含んでいます。元新聞記者として、今回はこのJALの飲酒機長が登録されていた要注意者リストの仕組みや基準を解き明かし、それが「絵に描いた餅」に終わってしまった理由を深く分析していきます。
JAL要注意者リスト、あなたの知らない”危険予知システム”の全貌
まず、この「要注意者リスト」とは一体どのようなものだったのでしょうか。JALが2025年1月に導入したこの制度は、一見すると先進的で網羅的なリスク管理システムのように見えます。先日お伝えしたJAL機長の飲酒問題ですが、その背景については、以前の記事で詳述していますので、そちらも併せてご覧ください。
要注意者リストとは?64歳機長が登録されていた理由
このリストは、過度な飲酒傾向のある社員を早期に特定し、重点的に管理・指導することを目的としています。問題の機長は、過去のアルコール検査での問題や健康診断の結果などから、このリストに登録されていました。つまり、会社側は彼が「リスクの高い従業員」であることを明確に認識していたのです。その上で産業医との面談を設定し、機長本人から「禁酒します」という誓約まで得ていました。
リスト化の具体的な判定基準と管理プロセス
リストへの登録は、決して恣意的なものではありません。そこには客観的な基準が設けられています。
- 健康診断における肝機能などのアルコール関連数値の推移
- 過去のアルコール検査で基準値を超えた履歴
- 上司や産業医による行動観察レポート
これらの情報を基に、健康管理部門と乗員部門が月次の専門部会で評価を更新する仕組みです。しかし、一度立ち止まって考えてみましょう。これほど緻密に見えるシステムが、なぜ機能しなかったのでしょうか。ここに、この問題の根深い本質が隠されています。
なぜ防げない?「禁酒します」と約束した機長が再び飲酒する心理的背景
「禁酒の約束を破るなんて、意志が弱いだけだ」——そう結論付けるのは簡単です。しかし、問題はそれほど単純ではありません。背景には、アルコール依存症という病気に対する、組織と社会全体の理解不足があります。
アルコール依存症の「否認の病」が引き起こす問題
アルコール依存症は、専門家の間では「否認の病」として知られています。本人が最も自分の問題を認めたがらない、という厄介な特徴を持つ病気なのです。「自分はコントロールできている」「これくらいなら大丈夫」という認知の歪みが、飲酒へのハードルを下げてしまいます。意志の力だけで克服できるものではなく、専門的な治療とサポートが不可欠なのです。
産業医面談の限界と本当に必要な継続サポート
JALが実施した産業医による面談と「禁酒の約束」は、この「否認の病」の前ではあまりにも無力でした。例えるなら、重度のインフルエンザ患者に「気合で熱を下げろ」と言っているようなものです。本当に必要だったのは、一度きりの面談ではなく、専門的なカウンセリングや、家族をも巻き込んだ継続的なサポート体制だったのではないでしょうか。組織として、病気と向き合う覚悟が欠けていたと言わざるを得ません。
プロが暴く!JAL飲酒対策の”致命的な穴”と業界標準との差
JALの対策は、国際的な航空業界の標準と比較すると、その見劣りぶりが際立ちます。特に、アルコール依存症のパイロットを治療し、職場復帰させるプログラムにおいては、周回遅れと言っても過言ではない状況です。
要注意者リストの運用実態と改善点
結局のところ、JALの「要注意者リスト」は、リスクを可視化するだけで、その後の具体的な管理・指導プロセスが形式的なものに留まっていたようです。リストを作ること自体が目的化し、「監視している」というアリバイ作りに終わってしまったのではないでしょうか。現場レベルでの情報共有や、継続的なモニタリングといった、システムの「魂」となる部分が完全に欠落していました。
海外航空業界のHIMSプログラムとの比較
目をアメリカに転じてみましょう。米国では、1974年からHIMS(Human Intervention Motivation Study)というプログラムが導入されています。これは、アルコール依存症のパイロットを専門的な治療につなげ、回復を支援し、最終的には職場復帰を目指す画期的な仕組みです。その復職率は89%と驚異的な高さを誇ります。
重要なのは、HIMSが「罰則」や「監視」だけでなく、「治療」と「回復」に重きを置いている点です。日本でも2023年にようやく日本版HIMSのガイドラインが策定されましたが、その運用はまだ始まったばかり。JALの対策は、懲罰的な側面ばかりが目立ち、回復を支援するという思想が決定的に欠けていたのです。
60回の自主検査でも発覚しなかった「隠蔽システム」の驚愕の手口
今回の事件で最も衝撃的なのは、機長が行っていた隠蔽工作の巧妙さと計画性です。これは「つい飲んでしまった」というレベルの話ではなく、会社の検査システムを熟知した上での、確信犯的な行為でした。
検知器日時変更による隠蔽工作の実態
機長は、乗務前にアルコールが検知されると、検知器の日時設定を自分の休日に変更して検査をやり直し、正常な数値を記録するという手口を繰り返していました。過去にも同様の手口で10回ほど飲酒の事実を隠蔽していたと供述しています。これは、JALが導入した顔認証付きの最新検知システムの盲点を突いた、悪質な記録改ざんです。
アルコール検査体制の盲点と対策強化
この事実は、JALの検査体制がいかに脆弱であったかを物語っています。第三者の立ち会いがない自主検査に依存し、データの改ざんを技術的に防ぐ仕組みもなかった。顔認証という最新技術を導入したことで、「対策は万全だ」という組織的な油断が生まれていたのかもしれません。テクノロジーへの過信が、最も原始的な不正行為を見過ごす結果につながったのです。
よくある質問と回答
Q. 「要注意者リスト」という仕組み自体に問題があったのですか?
A. 仕組みそのものが悪いわけではありません。リスクのある従業員を特定する試みは重要です。しかし、リストを作成した後の具体的なサポート体制や、アルコール依存症という病気への正しい理解がなければ、制度は形骸化してしまいます。運用の問題が極めて大きかったと言えます。
Q. アルコール依存症のパイロットは、もう二度と操縦できないのでしょうか?
A. そうとは限りません。米国のHIMSプログラムのように、適切な治療と継続的なサポート、そして厳格なモニタリング体制があれば、多くのパイロットが安全に職務に復帰しています。重要なのは、罰して排除するのではなく、治療して回復させるという社会的なコンセンサスです。
Q. JALの再発防止策は信用できますか?
A. 表面的なシステムの強化だけでは不十分です。今回の失敗の根本原因である「アルコール依存症への理解不足」と「形式的な管理体制」という組織文化そのものにメスを入れない限り、真の信頼回復は難しいでしょう。今後のJALの取り組みを、社会全体で厳しく監視していく必要があります。
まとめと今後の展望
本稿で分析してきたように、今回のJAL飲酒機長の問題は、要注意者リストという仕組みや基準が、いかに簡単に無力化されうるかを白日の下に晒しました。この事件が私たちに突きつける最大の教訓は、「システムは万能ではない」という厳然たる事実です。
真の航空安全、ひいては組織の安全文化を醸成するために必要なのは、テクノロジーによる完璧な「監視」を目指すことではありません。むしろ、人間が過ちを犯す不完全な存在であることを前提とし、その過ちを早期に発見し、回復を支援する組織的な「成熟」こそが求められているのではないでしょうか。この痛ましい事件を、日本の航空業界全体が生まれ変わるための重要な一歩としなければなりません。
参考文献
- 産経新聞:飲酒の64歳機長は「要注意者」だった 「過度な飲酒傾向」日航 (出典)
- 国土交通省:航空運送事業者における飲酒対策 (出典)
- 毎日新聞:乗務前に飲酒のJAL機長は「要注意者リスト」入り 過去にも滞在先で (出典)
- JAL企業サイト:アルコールや薬物に係わるリスク管理体制 (出典)
- 日本定期航空協会:日本版HIMSガイドライン (出典)
- アクティア株式会社:ALBLO CLOUD SERVICE導入事例 (出典)
- 読売新聞オンライン:JAL飲酒機長、アルコール検査記録を改ざん…飲酒リスク高い「要注意者リスト」に名前 (出典)
- NHK NEWS WEB:飲酒のJAL機長 厳正処分へ これまでにも滞在先で繰り返し飲酒 (出典)

