「え、あの『プロレススーパースター列伝』の原田先生が亡くなったって本当?」「『一発屋と言われたっていい』って、どういう意味なんだろう…」そんな声が聞こえてきそうです。
先日、漫画家の原田久仁信さんが急逝されました。代表作『プロレススーパースター列伝』は多くの少年たちの心を掴みましたが、ご本人は自身のキャリアを「一発屋」と表現していたとか。この記事では、その言葉の真意と、原田先生が貫いたプロの矜持に迫ります。
急逝した伝説の漫画家・原田久仁信さんとは?
まずは、原田久仁信さんがどのような漫画家だったのか、その足跡を辿ってみましょう。代表作や作風、そしてなぜ今、多くの人がその死を悼んでいるのか、その背景に迫ります。
『プロレススーパースター列伝』で時代を彩った劇画家
「ブッチャーのフォーク攻撃は本当に痛そうだった!」「タイガーマスクの空中殺法に痺れた!」――そう、原田先生といえば、何と言っても『プロレススーパースター列伝』ですよね。1980年から『週刊少年サンデー』で連載され、アブドーラ・ザ・ブッチャーや初代タイガーマスクといった実在のレスラーたちの知られざるエピソードを、ド迫力の劇画で描きました。
1951年、福岡市に生まれた原田先生は、アパレル企業勤務を経て、1977年に小学館新人コミック大賞に入選し、翌年デビュー。そして1980年、巨匠・梶原一騎先生の指名を受け、『プロレススーパースター列伝』の作画を担当することになります。これが、累計100万部を超える大ヒット作となったのです。当時の『少年サンデー』といえば、『うる星やつら』や『タッチ』といったラブコメ全盛期。そんな中、女性キャラがほとんど出てこない硬派なプロレス漫画が読者アンケートで3位に入るというのは、異例中の異例だったと言えるでしょう。
アナログ作画を貫いた職人気質とその魅力
原田先生のもう一つの特徴は、生涯アナログ作画を貫いたことです。Gペンや丸ペンを駆使し、スクリーントーンを丹念に貼り付けていく…その手作業から生み出される絵には、デジタルでは表現しきれない独特の熱量と迫力がありました。
ペン入れの際の線の強弱、ベタ塗りの大胆さ、そしてここぞという場面でのスクリーントーンの巧みな使用。それらが一体となって、レスラーたちの汗や魂の叫びまでもが伝わってくるような、生々しい臨場感を生み出していたのです。この手描きならではの温かみと迫力が、多くの読者を惹きつけたのではないでしょうか。
「一発屋と言われたっていい」――その言葉の真意と背景
さて、ここで気になるのが、原田先生が生前に語ったとされる「一発屋と言われたっていい」という言葉です。大ヒット作を持つ漫画家が、なぜ自らそう語ったのでしょうか。その言葉に込められた本当の意味と、当時の葛藤に迫ってみましょう。
大ヒット作の後に抱えたジレンマ
『プロレススーパースター列伝』という金字塔を打ち立てた後、原田先生は「似顔絵じゃないと注目されない」「自分で作ったオリジナルのキャラクターでは反響が出ない」という大きなジレンマを抱えることになります。これは、一度大きな成功を収めたクリエイターがしばしば直面する、非常に根深い課題と言えるでしょう。
せっかく新しい挑戦をしても、世間が求めるのはどうしても過去の代表作のイメージ。このギャップに苦しんだ時期もあったようです。一時は漫画家の筆を置き、清掃や倉庫、飲食店でのアルバイト生活を送っていたというのですから、その苦悩の深さがうかがえます。
初代タイガーマスク・佐山聡の苦悩との共鳴
そんな原田先生が深い共感を寄せたのが、初代タイガーマスクこと佐山聡さんの苦悩でした。佐山さんは1985年に刊行された著書『ケーフェイ』の中で、プロレスのショー的側面と自身のリアルな格闘志向との間で揺れ動いた「自己不一致の苦悩」を告白しています。
原田先生は、この佐山さんの姿に、「本当の自分とは何か」というテーマを見出します。華やかなマスクの下で葛藤するスーパースターの姿は、まさに『列伝』が描いてきた「真実と虚構」の世界そのものだったのかもしれません。そして、それは原田先生自身の漫画家人生とも重なる部分があったのではないでしょうか。
梶原一騎という巨星と「求められる自分」
原田先生のキャリアを語る上で欠かせないのが、原作者である梶原一騎先生の存在です。「プロレス漫画を描かないか」という梶原先生からの直接の指名が、『列伝』誕生のきっかけでした。その後も『一騎人生劇場 男の星座』でタッグを組むなど、二人の関係は単なる原作者と作画家を超えたものだったと言えるでしょう。
梶原先生という「巨星」の求めに応え続ける中で、原田先生は「プロレス劇画の原田久仁信」という、ある意味で他者によって形作られた役割を受け入れ、それを自身の強みとして磨き上げていったのではないでしょうか。この経験が、「一発屋と言われたっていい」という言葉の背景にある、ある種の覚悟へと繋がっていくのです。
原田久仁信の「覚悟」から私たちが学ぶべき仕事論
原田先生の生き様や言葉は、現代を生きる私たちにとっても、仕事やキャリアを考える上で多くのヒントを与えてくれます。ここからは、その「覚悟」から私たちが何を学べるのかを考えていきましょう。
「求められる場所で咲く」ことの強さとは
「一発屋と言われたっていい」。この言葉、一見すると自虐的にも聞こえるかもしれません。でも、ちょっと待ってください。これは決して負け惜しみや諦めの言葉ではない、と私は思うのです。むしろ、「自分の強みが最大限に活かせる場所で、求められる役割を全力でまっとうする」という、プロフェッショナルとしての強い覚悟の表れではないでしょうか。
誰もがオンリーワンを目指せるわけではありません。しかし、自分に与えられた場所で、誰かの期待に応え、そこでナンバーワンの輝きを放つことはできるはずです。原田先生は、プロレス劇画というフィールドで、読者が求める熱いドラマを描き切ることで、その価値を証明してみせたのです。
自己評価と他者評価のバランスの取り方
「自分がやりたいこと」と「周りから求められること」。この二つの間で揺れ動くのは、誰しも経験があるのではないでしょうか。特にクリエイティブな仕事をしていると、このジレンマは常につきまといます。
原田先生も、オリジナル作品への思いと、「原田久仁信といえばプロレス劇画」という他者評価の間で悩んだ時期があったはずです。しかし最終的には、「読者からプロレス劇画だけを求められているのだったら、とことんそれをやればいい」と、ある種の割り切りと共に現実を受け入れました。これは、自己評価と他者評価の健全なバランスを見つける上で、非常に重要な視点だと感じます。
潔く生きるための「自分軸」の見つけ方
結局のところ、大切なのは他人の評価に一喜一憂するのではなく、自分の中に確固たる「軸」を持つことなのかもしれません。原田先生にとって、それは「読者に夢を与える劇画を描く」というプロ意識であり、「梶原先生の期待に応える」という矜持だったのではないでしょうか。
【まとめ】原田久仁信が遺した「珠の如き」メッセージを未来へ
ここまで、漫画家・原田久仁信さんの生涯と、その言葉の奥にあるプロフェッショナリズムについて見てきました。「一発屋と言われたっていい」という言葉は、自らの代表作への誇りと、読者への感謝、そして何より「求められる場所で咲く」という潔い覚悟の表れだったように思います。
原田先生は生前、梶原一騎先生の「辞世の句」がお気に入りだったと語っています。
「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん……」
自らの命をかけがえのない珠のように大切にし、天命を全うしたならば、その珠が砕けるように潔く散りたい――。この句に込められた創作者としての矜持は、まさに原田先生自身の生き様とも重なります。
私たちは、原田先生が遺してくれた作品と、その生き様から何を学び取るべきでしょうか。一度立ち止まって、自分にとっての「珠」とは何か、そしてそれをどう輝かせていくのかを考えてみるのも良いかもしれませんね。社会の変化が激しい現代だからこそ、原田先生が示したような、自分自身の価値を信じ、与えられた場所で全力を尽くすという姿勢が、私たちに勇気を与えてくれるのではないでしょうか。