人気漫画家・江口寿史氏によるイラストのトレース疑惑が、クリエイター界隈だけでなく、社会全体に大きな波紋を広げています。多くの人が「誰が悪いのか」「どこまでが許されるのか」という表面的な現象に目を奪われがちですが、問題の本質は本当にそこにあるのでしょうか。
この記事では、元新聞記者としての視点から、その背後に隠された創作活動における構造的な問題や、SNS時代における企業のリスク管理という経済的な文脈を読み解きます。この出来事が、我々作り手と受け手、双方に何を問いかけているのかを深く考察していきましょう。
江口寿史トレース騒動の全貌~あなたも知らずに踏んでいるかもしれない「著作権の地雷」
今回の騒動は、単なる一個人の問題として片付けられるものではありません。SNSという現代のインフラが、いかにして一個人の告白を大規模な社会問題へと増幅させたのか。そのプロセスを見ていく必要があります。
事件の発端:Instagram写真の無断使用が発覚
中央線文化祭のイラストは、インスタに流れてきた完璧に綺麗な横顔を元に描いたものですが、ご本人から連絡があり、アカウントを見てみたらSNSを中心に文筆/モデルなどで発信されている金井… pic.twitter.com/ond4cdH6qp
— 江口寿史 (@Eguchinn) October 3, 2025
まず事実関係を整理しましょう。2025年10月3日、江口寿史氏が自身のX(旧Twitter)で、商業ポスターに使用したイラストが「インスタに流れてきた」一般女性の写真を元に描いたものであると明かしたことから全ては始まりました。ポーズや陰影、服のシワに至るまで酷似していたため、これは「トレース」であると判断されたのです。
問題の核心は、江口寿史氏が「スペース」での会話をきっかけに告白したこの行為が、事前許諾のない商用利用であった点です。被写体の女性とは事後的に承諾を得て「解決済み」とされましたが、謝罪の姿勢が見られないと受け取られ、批判が拡大。結果として、広告主であるルミネ荻窪はビジュアルを一時撤去する事態に追い込まれました。
SNS上で広がる「元ネタ探し」の波紋
しかし、一度着火した火は簡単には消えませんでした。X上ではユーザーによる過去作品の「元ネタ探し」が活発化し、検証画像が大量に投稿され、ハッシュタグがトレンド入りする事態となります。これは単なる好奇心だけではありません。ファンからの「尊敬していただけに失望した」という声が示すように、作り手への信頼が揺らいだことへの反応と見るべきでしょう。
こうしたSNSによる検証文化の加速は、クリエイターにとって諸刃の剣です。一方で不正を許さないという自浄作用が働きますが、他方で一度疑惑の目を向けられると、過去の作品まで遡って徹底的に検証され、作家生命を脅かしかねないリスクを常に抱えることになります。
企業も巻き込んだ大規模騒動への発展
この火の手は、当然ながら過去に江口氏を起用した企業にも及びました。Zoffやデニーズといった大手企業が、騒動発覚からわずか1日という異例のスピードで調査開始を発表。これは、現代においてクリエイター個人の問題が、いかに素早く企業自身のブランドイメージを毀損する「レピュテーションリスク」に直結するかを如実に示しています。
企業にとって、これは単なるコンプライアンス対応以上の意味を持ちます。SNS時代のマーケティングは、起用するクリエイターの信頼性も含めて、消費者に評価される。その厳しい現実を突きつけられた形です。
プロなら絶対知っておくべき!トレースが違法になる「危険なライン」とは
「トレース」という言葉が独り歩きしていますが、一体どこからが法的に問題となるのでしょうか。これは全ての創作活動に関わる人間が理解しておくべき、極めて重要な境界線です。
「練習のトレース」と「商用トレース」の決定的な違い
まず大前提として、個人的な練習のために行うトレース自体は、画力向上のための有効な学習手段であり、著作権法第30条の「私的使用」の範囲内であれば問題ありません。しかし、その成果物をSNSにアップしたり、ましてや商品として販売・公開したりすれば話は全く別です。
「商用利用」か否か。それがトレースの適法性を分ける最大の分岐点です。プロのクリエイターは、その作品が金銭的な対価を得るために使われる以上、アマチュアよりも遥かに高い注意義務を負うのは当然と言えるでしょう。
著作権法が定める複製権・翻案権の境界線
法律の話を少しだけさせてください。著作権法には「複製権(そっくりそのままコピーする権利)」と「翻案権(元の作品の特徴を維持しつつアレンジする権利)」があります。トレースは、このどちらかに抵触する可能性が極めて高い行為です。
裁判では「元の著作物の本質的特徴を直接感得できるか」が基準となりますが、この判断は非常に曖昧です。だからこそ、プロの現場では「疑わしきは避ける」というリスク管理が鉄則のはず。特に写真のような具体的な被写体が存在するものを参考にする場合、そのリスクは格段に高まります。
肖像権侵害リスクと事前許諾の重要性
著作権だけでなく、もう一つ忘れてはならないのが「肖像権」です。個人が特定できる写真を無断で使用すれば、たとえイラストに描き起こしたとしても肖像権侵害を問われる可能性があります。特に商業利用の場合は、そのリスクは計り知れません。
江口氏のケースは事後承諾で一旦の解決を見ましたが、これは極めて危険な賭けです。もし相手方が承諾を拒否すれば、損害賠償請求に発展する可能性も十分にありました。プロの世界において事前許諾は、単なるマナーではなく、自らを守るための最低限の法的プロセスなのです。
なぜ一流クリエイターでもこんなミスを?制作現場の「チェック体制」問題
多くの人が抱く疑問は、「なぜ江口氏のような一流のプロが、これほど初歩的なミスを犯したのか?」という点でしょう。しかし、これは単に個人の倫理観の問題なのでしょうか。私は、業界全体が抱える構造的な問題が背景にあると見ています。
企業依頼における権利確認プロセスの実態
通常、企業が関わる大規模なプロジェクトでは、制作者本人によるチェックだけでなく、ディレクターや法務部による多段階の権利確認プロセスが存在します。しかし、クリエイター個人の知名度や実績に依存する形で仕事が進む場合、このチェック機能が甘くなる傾向はないでしょうか。
「あの大家がやることだから大丈夫だろう」という無言の信頼が、本来踏むべき手続きを省略させてしまう。こうした馴れ合いの構造が、今回の問題の温床になった可能性は否定できません。
古塔つみ事件との比較で見える業界の課題
2022年に起きた古塔つみ氏のトレース騒動を思い出してください。あの事件をきっかけに、業界のチェック体制は強化される方向に動いたはずでした。しかし、今回再び同様の問題が、しかもより著名な作家によって引き起こされたという事実は重く受け止めるべきです。これは、問題の根が我々の想像以上に深いことを示唆しています。
クリエイター個々の倫理観の向上はもちろんですが、それ以上に、依頼する企業側がクリエイター任せにせず、権利関係の確認を制作プロセスの必須項目としてシステム化することが急務です。
AI時代に求められる新しい創作倫理
さらに、生成AIの普及は、この問題をより複雑にしています。AIが生成したイラストの元データに著作権侵害のものが含まれていたら、その責任は誰が負うのか。Adobeのように学習データの内容を保証するサービスも出てきましたが、まだ法整備は追いついていません。
テクノロジーが進化する今だからこそ、我々人間は「創作とは何か」「オリジナリティとは何か」という根源的な問いに向き合い、新しい時代の創作倫理を業界全体で構築していく必要があります。
今すぐできる!あなたの作品を守る「著作権トラブル回避術」
今回の騒動は、他人事ではありません。全てのクリエイター、そしてクリエイターに仕事を依頼する企業担当者が、自らの身を守るために何をすべきかを考えるべきです。
事前許諾と事後承諾の法的リスク差
繰り返しになりますが、事前許諾と事後承諾では天と地ほどの法的リスク差があります。事後承諾は、あくまで相手の善意に期待する非常手段に過ぎません。プロとして仕事をする以上、許諾は必ず事前に、できれば書面で取得することを徹底してください。これを怠ることは、時限爆弾を抱えながら仕事をするのと同じです。
参考資料使用時の安全な手順とチェックリスト
では、具体的にどうすれば安全に創作活動を行えるのか。最低限、以下のプロセスは必須です。
- 使用する素材のライセンス(商用利用可能か)を詳細に確認する。
- 人物が写っている場合は、必ず被写体本人から許諾(モデルリリース)を取得する。
- 参考にした資料は、万が一の際に「依拠関係」を説明できるよう記録・保管しておく。
- 完成した作品が既存の作品と類似していないか、客観的な目でダブルチェックする体制を設ける。
企業依頼時の契約書で確認すべき重要ポイント
企業がクリエイターに依頼する際は、契約書の内容が生命線となります。口約束は絶対に避け、以下の点を確認してください。
- 制作物の著作権がどちらに帰属するのか。
- 第三者の権利を侵害していないことを制作者が保証する条項(保証条項)。
- 万が一、権利侵害が発覚した場合の責任分担と対応プロセス。
契約書は、トラブルを未然に防ぎ、起きてしまった際の被害を最小限に食い止めるための最も有効なツールです。
よくある質問と回答
Q. 結局、江口寿史氏の何が一番問題だったのでしょうか?
A. 法的には「事前許諾なく他人の写真を商用利用した」ことです。それに加え、社会的な観点からは、発覚後の対応が真摯な謝罪と受け取られず、かえって批判を拡大させた点が大きな問題だったと言えるでしょう。
Q. 練習で写真をトレースしたイラストを、SNSに投稿するのも違法ですか?
A. 個人的な練習の範囲を超え、不特定多数が見られるSNSに公開する行為は、著作権法で定められた「私的使用」の範囲外と判断される可能性が高いです。複製権や公衆送信権の侵害にあたるリスクがあるため、避けるべきです。
Q. クリエイターを守るために、企業は今後どうすべきですか?
A. クリエイターに権利確認の全責任を押し付けるのではなく、企業側も主体的にチェックする体制を構築することが重要です。契約書で権利関係と責任分担を明確に定め、制作プロセスの中に権利侵害のリスクがないかを確認する工程を組み込む必要があります。
まとめと今後の展望
本稿で論じてきたように、今回の江口寿史氏のスペースでの告白に端を発するトレースと著作権の問題は、単なる個人の過失ではありません。その背景には、SNSによる評価とリスクの増幅、長年見過ごされてきた業界の慣習、そしてクリエイターと企業の間の権利意識のズレといった、複雑な構造が見え隠れします。
重要なのは、この一件を「誰かを悪者にして終わり」にするのではなく、これを機に業界全体が創作活動に伴う権利と倫理について、改めて深く考えることです。この問いを、読者の皆さんと共に考え続けるきっかけになれば幸いです。
参考文献
- note(ポルリン):江口寿史氏の「トレース疑惑」を著作権・肖像権などの法的観点から解説 (出典)
- COKI(コキ):漫画家江口寿史、SNS写真無断商用利用&トレパクで波紋 (出典)
- Yahoo!ニュース(スポニチ):江口寿史氏制作の「イラスト」めぐり各社が声明発表「事実関係を調査中」 (出典)
- ベリーベスト法律事務所:イラストや画像のトレスは違法?企業が対策すべき著作権侵害 (出典)
- モノリス法律事務所:頻発するトレパク騒動 イラストのトレースと著作権法を解説 (出典)
- ルミネ荻窪公式サイト:『中央線文化祭2025』に関するお知らせ (出典)


