「あの場面、観ていて胸が締め付けられた…」「なぜ、あのような描写が?」―― 先日の『べらぼう』第18話をご覧になって、そんな風に心がざわついた方もいらっしゃるかもしれませんね。
歌麿(捨吉)の壮絶な過去の告白、そして異例の「注意喚起」テロップ…。今回は、あの衝撃的なシーンの裏側にあるもの、史実との関わりや込められた想いについて、少し一緒に考えてみませんか。
『べらぼう』第18話 視聴者を戦慄させた「2つの衝撃シーン」とは?
まずは、多くの視聴者の心に大きな波紋を広げた、NHK大河ドラマ『べらぼう』第18話の具体的な場面を振り返ってみましょう。特に印象的だったのは、主要人物の過去が明かされるシーンと、ある登場人物が見た奇妙な悪夢、そして番組冒頭に表示された異例のメッセージでした。
歌麿(捨吉)の壮絶な告白:虐待と男娼の過去
染谷将太さんが演じる、後の喜多川歌麿となる捨吉。彼が横浜流星さん演じる蔦屋重三郎に、自身の衝撃的な生い立ちを打ち明ける場面がありました。
母親は夜鷹(街娼)であり、自身は望まれずに生まれた子であること。そして、戸籍もなく、「七つを過ぎると客を取らされていた」こと…。静かに語られるその言葉の重みに、息をのんだ方も多かったのではないでしょうか。SNSなどでは、「酷い…」「壮絶すぎる」「七つって…」といった、悲痛な声が多く見受けられました。
朋誠堂喜三二の悪夢:「腎虚」と「大蛇」の奇抜な描写
もう一つ、視聴者を驚かせたのは、尾美としのりさん演じる戯作者・朋誠堂喜三二のエピソードです。「腎虚」という男性特有の病に悩む彼が見た、奇妙な悪夢のシーン。
体のとある部分が禍々しい大蛇と化して暴れまわる…という、CGを駆使したファンタジーのような映像表現でした。これまでの大河ドラマではあまり見られなかったような大胆な演出に、「まさかの大蛇!」「突然特撮が始まった」といった驚きの声や、戸惑いながらも面白さを感じたという反応もありました。
異例の「注意喚起テロップ」:SNSでの様々な反応
そして、第18話の冒頭には「番組の一部に性の表現があります」という、これまでにない注意喚起のテロップが表示されました。このメッセージ自体にも、「なぜ今回?」「これまでの描写の方が過激だったのでは?」といった疑問や、「クレーム対策なのかな」「NHKも配慮が必要な時代か」など、様々な憶測や意見が飛び交いました。
歌麿(捨吉)の「壮絶な過去」は史実なのか? ドラマの脚色と制作陣の意図を探る
捨吉が語った、あまりにも過酷な過去。視聴者として最も気になるのは、「これはどこまで史実に基づいているのだろうか?」という点かもしれませんね。ここでは、史実の喜多川歌麿と、ドラマで描かれる人物像について、少し深く考えてみたいと思います。
史料に残る喜多川歌麿の出自:謎多き前半生
実は、歴史上の人物としての喜多川歌麿の出自や若い頃については、はっきりとした記録が少なく、謎に包まれている部分が多いのです。一説には川越の茶屋の息子とも、あるいは別の土地の生まれとも言われていますが、確かなことは分かっていません。
ドラマにおける「男娼」設定:どこまでが創作か?
ドラマで描かれた「母親が夜鷹」「七歳から男娼をさせられていた」という設定は、現在のところ、史実として確認されているものではありません。特に「男娼」という部分は、ドラマならではの脚色、フィクションの要素が強いと考えられます。
江戸時代に男娼が存在したことは事実ですが、歌麿自身がそうであったという記録は見当たりません。この設定は、ドラマが描こうとするテーマにとって、何らかの意味を持つものとして加えられた可能性が高いでしょう。
なぜこの設定? 蔦重との絆と”魂の再生”を描くための必然か
では、なぜ制作陣はこのような重い過去を歌麿に背負わせたのでしょうか。一つ考えられるのは、主人公・蔦屋重三郎との深い絆を描くためかもしれません。
蔦重自身も、決して恵まれた出自ではありません。社会の底辺で生きる人間の痛みを知る蔦重だからこそ、同じような境遇で苦しんできた捨吉(歌麿)の才能を見出し、手を差し伸べることができた。壮絶な過去を持つ者同士が、互いを理解し、支え合いながら未来を切り拓いていく…そんな「魂の再生」の物語を描く上で、この設定は重要な意味を持っていたのかもしれません。
なぜ今「注意喚起」? テロップに込めたNHKの狙いと”性表現”の境界線
第18話冒頭の「注意喚起テロップ」も、多くの議論を呼びました。なぜ、このタイミングで、このようなメッセージが表示されたのでしょうか。その背景にあるものや、大河ドラマにおける表現について考えてみましょう。
これまでの描写との違いは? テロップ表示の線引きを考える
『べらぼう』では、これまでも吉原という舞台設定上、遊女たちの過酷な現実を示唆する描写(例えば、第1話で亡くなった遊女が裸で打ち捨てられるシーンなど)がありました。そのため、「なぜ今回はテロップが?」と疑問に感じた方もいたようです。
もしかすると、今回は捨吉の「七つから客を取らされた」という直接的な言葉による告白や、具体的な性的虐待を強く想起させる内容であったため、より慎重な配慮が必要と判断されたのかもしれません。映像ではなく、言葉の持つ重み、という点も考慮された可能性がありそうです。
考えられる複数の理由:クレーム対策? 倫理的配慮? それとも…
テロップ表示の理由としては、いくつかの可能性が考えられます。一つは、やはり視聴者からのクレームや、BPO(放送倫理・番組向上機構)への意見などを想定した、事前の配慮、いわゆる「クレーム対策」という側面もあるのかもしれません。
しかし、それだけではなく、特に未成年の視聴者や、過去に同様の経験を持つ方々への心理的な影響を考慮した、倫理的な配慮という側面も大きいのではないでしょうか。あるいは、これから描かれる内容の重さやテーマ性を、あらかじめ視聴者に伝える意図もあったのかもしれません。
インティマシー・コーディネーター導入の意味と役割
ここで注目したいのが、『べらぼう』で大河ドラマとして初めて導入された「インティマシー・コーディネーター」の存在です。これは、性的なシーンやヌードシーンなどの撮影において、俳優の精神的・肉体的な安全を守り、制作側の意図と俳優の意向を調整する専門職です。
今回の捨吉の告白シーンなども含め、デリケートな描写において、俳優が安心して役に没入できる環境を整える上で、重要な役割を果たしていると考えられます。表現の自由を守りつつ、関わる人々への配慮も怠らない、という制作姿勢の表れとも言えるでしょう。
タブーへの挑戦か? 大河ドラマにおける「性表現」の現在地
今回の『べらぼう』の描写やテロップ表示は、大河ドラマにおける「性表現」のあり方について、改めて考えるきっかけを与えてくれたように思います。歴史の暗部や、人間の生々しい感情を描く上で、どこまで踏み込むのか。その表現の境界線は、時代や社会の変化と共に、常に問い直され続けるものなのかもしれません。
制作陣の「タブーに挑戦する」という覚悟を感じる一方で、それを受け止める私たち視聴者側にも、想像力や歴史への理解、そして多様な表現に対する寛容さが求められている、と言えるのかもしれませんね。
「腎虚と大蛇」はただの奇抜な演出ではない? 江戸のリアルな病気観と文化
もう一つの衝撃シーン、朋誠堂喜三二の「腎虚」と「大蛇」の悪夢。一見すると、あまりに奇抜で、少し笑ってしまったという方もいるかもしれません。しかし、この描写も、当時の文化や価値観を知ると、また違った側面が見えてくる可能性があります。
「腎虚」とは何か? 江戸時代の医学と性の捉え方
まず「腎虚」という言葉ですが、これは現代医学の病名とは少し異なり、主に漢方医学で用いられる概念です。簡単に言えば、生命エネルギーの源である「腎」の働きが衰えた状態を指し、疲労感や気力の低下、そして精力減退といった、男性特有の悩みにも結びつけて考えられていました。
江戸時代の人々にとって、「腎」は単なる臓器ではなく、生命力や生殖能力を司る、非常に重要なものと捉えられていたようです。そのため、「腎虚」は、身体的な不調だけでなく、精神的な落ち込みや、男性としての自信喪失にも繋がりうる、深刻な悩みだったのかもしれません。
悪夢の大蛇:当時の人々が信じた病と怪異の関係
そして、その悩みが「大蛇」という形で悪夢に現れる、という描写。これも、現代の感覚からすると突飛に見えますが、当時の人々にとっては、意外とリアルな感覚だった可能性もあります。
戯作者・朋誠堂喜三二:キャラクター造形としての意味合いは?
このエピソードは、朋誠堂喜三二という人物をより深く描くための工夫、とも考えられます。彼は、洒落や風刺の効いた「黄表紙」というジャンルで人気を博した戯作者です。
もしかすると、この悪夢のエピソードは、彼のユーモラスな作風の裏に隠された、人間的な弱さや悩み、あるいは創作の苦しみといったものを、江戸のリアルな感覚を借りて表現しようとした、一種の比喩表現だったのかもしれません。今後の彼の作品や生き方に、この経験がどう影響していくのか、注目したいところですね。
【まとめ】衝撃描写の先に『べらぼう』が描こうとするものとは
ここまで、『べらぼう』第18話で描かれた衝撃的なシーンについて、その背景や意味合いを探ってきました。歌麿(捨吉)の壮絶な過去、異例の注意喚起テロップ、そして腎虚と大蛇の悪夢…。一つ一つの描写には、単なる話題作りや刺激だけではない、深い意図が込められているように感じられます。
歴史の光だけでなく、その影にある人々の苦しみや葛藤、そしてそれを乗り越えようとする人間の強さや複雑さ。そうしたものを、現代の私たちにも伝わる形で描こうとする、制作陣の覚悟のようなものが伝わってくるようです。
作り手が投げかけた問いを、私たち視聴者もまた、それぞれの心で受け止め、考え続けていく。そんな対話の中にこそ、『べらぼう』というドラマを深く味わう鍵があるのかもしれませんね。

