骨肉腫を克服し、パラリンピック3大会連続出場を果たした車いすテニスの三木拓也選手。
その波乱万丈な人生と輝かしい実績、そして未来への挑戦を徹底解説。島根県出身の34歳が世界の舞台で見せる活躍と成長の軌跡に迫ります。
車いすテニスの三木拓也選手について
三木拓也選手は、日本を代表する車いすテニスプレイヤーです。骨肉腫を乗り越え、パラリンピック3大会連続出場を果たした彼の軌跡を詳しく見ていきましょう。
プロフィール情報
- 名前:三木拓也(みき たくや)
- 生年月日:1989年4月30日
- 出身地:島根県出雲市
- 血液型:A型
- 所属:トヨタ自動車
学歴
三木選手は島根県立出雲高等学校を卒業後、理学療法士を目指して神戸学院大学に進学しました。
しかし、車いすテニスに専念するため、1年後に中退しています。
病気とテニスを始めた経緯
三木選手は幼少期からスポーツ好きで、小学4年生からテニスを始めました。高校では硬式テニス部で活躍し、3年時にはダブルスで県総体準優勝を果たしています。
しかし、高校3年生の秋、左すねに骨肉腫が見つかり、左ひざに人工関節を入れることになりました。
入院中、2008年北京パラリンピックで金メダルを獲得した国枝慎吾選手の活躍を見て車いすテニスの存在を知り、競技を始める決意をしました。
実績
三木選手の主な実績は以下の通りです。
- パラリンピック3大会連続出場(2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロ、2021年東京)
- 2016年リオデジャネイロパラリンピック:ダブルス4位
- 2023年ウィンブルドン・全米オープン:男子ダブルス準優勝
- 2024年全豪オープン:男子ダブルス準優勝、シングルスベスト4
- 世界ランキング最高位:6位(2014年)
プレースタイル
三木選手は安定したショットと緩急をつけたプレースタイルを武器としています。
特に「総合力」を重視しており、様々な球種を打ち分けられることが強みです。コーチの大高翔氏は、パワーテニスが主流となる中で、三木選手の「チェンジオブペース」できる能力が生きると評価しています。
三木拓也の家族構成
三木選手の家族は、両親と2歳年下の双子の弟たちで構成されています。
父の整(ひとし)さんは無類のスポーツ好きで、三木選手の幼少期からさまざまなスポーツを経験させました。母の直実(なおみ)さんは、三木選手の闘病中、毎日病院に食事を届けるなど献身的にサポートしました。
双子の弟のうち、兄の航太(こうた)さんは臨床工学士を、弟の翔伍(しょうご)さんは薬剤師を目指して大学に通っていました。三木選手の両親と弟たちは、彼の車いすテニス選手としてのキャリアを全面的に支援しています。
三木拓也の人柄が分かるエピソード
三木拓也選手の人生には、感動的で印象的なエピソードが数多くあります。ここでは、彼の人間性や競技に対する姿勢がよく表れているいくつかのエピソードを紹介します
テニスへの情熱
高校時代の三木選手は、「学校にはテニスのために行っていた」と言うほどテニス漬けの生活を送っていました。
この頃から、スポーツへの並々ならぬ情熱が垣間見えます。
挫折と再起
骨肉腫の診断後、三木選手は一時絶望し、大切にしていたテニスラケットを叩き折って泣き崩れたといいます。
しかし、車いすテニスとの出会いで希望を見出し、前向きに競技と向き合う日々へと変化していきました。この経験が、現在の三木選手の強さの源となっています。
若手との協力
2023年から、三木選手は17歳年下の小田凱人選手とダブルスを組んでいます。
この組み合わせは、グランドスラム大会で好成績を残し、年齢差を超えたパートナーシップとして注目を集めています。
経験豊富な三木選手と若手の小田選手の相乗効果が、日本の車いすテニス界に新風を吹き込んでいます。
地元との絆
三木選手は、地元・島根県の義肢装具メーカーと15年以上にわたって連携し、競技用の装具開発に取り組んでいます。
この長年の協力関係が、三木選手のパフォーマンス向上に大きく貢献しています。また、地元での講演会や子供たちとの交流活動にも積極的で、自身の経験を通じて障害を持つ子供たちに希望を与える活動にも力を入れています。
三木拓也選手は、「貫く」「継続は力なり」を座右の銘とし、困難を乗り越えて世界の舞台で活躍し続けています。その圧倒的な実力と人間性で、多くの人々に勇気と希望を与え続ける三木選手。
2024年パリパラリンピックでのメダル獲得が期待される中、彼の挑戦はまだまだ続きます。
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